マチス

私の好きな画家たち―その7

このシリーズをブログにアップする作業はまだ道半ばなのだけど、どうも士気が上がらないみたい。
前に書いた文章ということもあるし、どの道こういう考察は抽象的なもので、本当はやはり自分の目で絵を直接見て五感で感じるのが何よりも大切だと思っているもので・・・。
なので、こういう文は絵の蛇足だと思って読んでください。

マチスの絵を画集で見てもその良さは中々分かりにくい。しかし実物を前にすると薄い絵具の塗りが物足りないとは思わず、それ独自の明朗な美しさを放ち、そこで筆を置いた必然性が分かるような気がする。彼のゆるやかな絵具の塗りには時代精神の働きがある。少し前の時代なら、下絵のような薄塗りで単純化された絵は到底完成作として受け入れられなかったに違いない。勿論マチス本人にしても、当初は作品の発表に大変な勇気を要しただろうが、彼自身はそれまでの伝統をしっかり踏まえ、セザンヌが正しいなら私の道も正しい筈だと、我が道を行った。
マチスは絵の制作において色を混色によって濁らせたり、重たくする事を嫌った。何よりも、見る人が絵から喜びを受けることを望み、最終的に切り絵などに代表される装飾的な仕事に自分の終着駅を見い出す。彼の絵は、長谷川利行やゴッホに代表される画家たちほど、画家個人の人生に彩られていなく、もっと匿名性を帯びている印象を受ける。現代の好ましい知性であろうか。個人的な悲劇を超えた、色彩、造形世界の追及という性格が強い。で、そうすると絵は次第に詩や音楽のような領域に近づき、事物との地上的な関わりが少なくなっていくのであろうか。時代と共に感情の質も変わるだろうから或いはそうかもしれない。しかし一方で思う事には、セザンヌやゴッホのようにリンゴや家や木をしっかり描きながらも、それらが地上的存在から引き上げられて芸術的となったほうが、より貴重で、得難いことではないかと。
歴史の流れの通り、本当にセザンヌの後にマチスが来るのか、或いはセザンヌはその中に既にマチスを内包しているのか。このことを考えていると禅の公案めいた問いを思い出す。一方はひと筆で対象を見事に描き出す、もう一方はいくら筆を重ねてもいささかも全体の調和を壊すことなく対象を描く力を持っている、さてどちらがより優れているか、と。全体がその中に細部を宿しているのか、或いは細部が全体を規定しているのか、- 行ったら、行きっぱなしでなく、また帰って来て、帰ってきたらまた行くという、永遠のやりとりだろうか。