油絵の具の流動性について

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絵における動きについて

油彩の静物画で大きさはF15号ぐらい。
風景や人物なら兎も角、静物画でこの大きさはまとまりに欠けることもあり、あまり描かない。
でも大きい絵の方が空間が広くて伸び伸びした自由さがあり描きたい気持ちはあったので、あえて木枠には張らずに水彩のように描いてみました。
絵が大きくなればなるほど小品のように一気呵成という訳にもいかず、物と物、色と色を繋げることに骨が折れて、気軽に始めても結局怒髪天を衝く状態に陥り(ちょっと大袈裟か)何度も一からやり直す羽目に陥ります。
でも今日書くのはその怒りの事ではなく、油絵の具の流動性について。
水彩画においては絵の具を水で溶いて描くので流動性は分かりやすいが、油絵はチューブから出した絵の具は流れず半ば固まっているのでそのまま使うと絵も固まりやすい。
(話は逸れるけれど、油絵具も昔は皮袋に入れた液状のものだったらしく、それでは戸外で描けないという事で色々な添加剤を加えて粘度を高めてチューブなるものに入れて持ち運びができるようになったそうです。)
水彩画の水に当たるのが油彩画ではテレピンとかぺトロールという揮発油だけど、それで絵の具を希釈すれば水彩画のように流動的な筆さばきで広い面積も素早く描ける。
勿論それだけでは油絵の輝くようなマチエール(絵肌)は得られないけど、描き始めのその流動性の感覚がすべての土台になると思う。だから例えゴッホのような堅牢な絵を描きたくても、最初は絵の具を流動的に使うことを勧めている(聞かれれば・・・)。
思うに固体はパンの皮みたいなもので、それを作っているのはパンの生地であり、ひいては水というはっきりとした形のないもの、水はさらに気体になって・・・と、どんどん流動的、自由になっていく。
物を見て絵を描くのは、ある意味物が出来る過程を内面で遡行することではないかなとも思う。
目に見える形あるものがそのまま映されてもそれがどうした、という感じだけど、何かその出自を感じさせるような絵に出合うと内面に精神的自由の喜びを覚える(勿論そこは人それぞれ、これはあくまで私の場合)。
そういう喜びは受け手側にもともとそういう記憶が奥深くに宿ってるから可能なことだと思う。

絵と同じでこういうブログも一応ある事を伝えようと思って書き始めても中々すんなりとまとまった形とならず、ふらふらとする。タイトルに相応しい内容でなかったり、言葉が足りなかったり、説明しようとすると余計ややこしくなったり。所詮文章は抽象的なものでどう書いたところで正しいという事はない、などとで嘯いて・・・取りあえずは何も書かないよりは拙くても何か書いたことで良しとしよう、という所に落ち着く・・・。
下記のブログもぜひ見て下さい。
油絵のマチエール