私の好きな画家たち―その8
マチスに引き続き今日はボナールの記事。
有名な画家と言えばともすれば絵と同等か、それ以上に画家自身に焦点があたりがちだが、その点ボナールはいい。画家の人生に表立ったドラマ性がなく純粋に彼の絵の素晴らしさに心が奪われ、それが誰が描いたかという事はどうでもいいように思える。
以下は以前に書いた文章。
色彩の魔術師とまで言われた画家だが、絵を描き始めても長い間その良さが分からなかった。こちらにそれを受け入れる力が無かったのだろう。また彼の絵は出来においてかなりばらつきがあるので、そのことも関係しているかもしれない。
1枚目の絵は、彼が40才の時のものだが、習作のようにさらっと描いたなかにも過去の遺産が十分消化吸収されているのが感じられる、非常にいい絵だと思う。しかし一方で、人や椅子、テーブルなどを描く時まだそれらを通常の意識で捉えていることが感じられる。
2枚目の絵は晩年のもので、ここに至ってボナールは全てを根源から捉え直し、1枚目のように目に見えるものを左から右に写すようなことはもうしていない。そこでは色が束縛から解放されて高らかに謳っている。色の祝祭である。それが何であるか問う必要もない色彩自身による充実、しかもそれが単なる空想ではなく、しっかりと実在の世界と結びついていることを感じさせる。長い年月の労苦を経て辿り着いた確かさ、輝きがその中にある。気をてらわず愚直なまでのモチーフとの対峙、その過程で地上的な重さの伴う色彩は、漸次天上的響きのする色彩へと昇華した。彼もまたセザンヌやゴッホ同様、自らの感覚を表出すべく自分の語法を作った。彼らとは違って極めて融通無碍な語法、液体状の絵具と固体上の絵具、ありとあらゆる色が自由に並置され、浸透し合い、それら全てが一つのオーケストラを奏でている。しかしその一見無造作に見える筆遣いはあらゆるもの吸収し、自己のものとして辿り着いた境地であり、さながら長年の熟成を経た極上のワインのように味わい深い。冗漫に陥ることも無く、かといって硬化する事もない緊張の領域、少し油断するとたちまち均衡を失ってしまう得難い世界、それを一気呵成ではなく長時間の制作の中で行っている。それは、ともすればすぐに消失する現実の上を漂う感覚が彼の中では堅牢であったことを思わせる。
その色彩は現代の我々の要求に応える何かを持っている。天上的なものを現実の言葉で置き換えるのではなく、現実を芸術的な次元に高めるという方向、そこに芸術が現実の生に益するものがあるように思う。