長谷川利行

私の好きな画家たち―その5

長谷川利行は日本人画家の中で私が最も好きな画家。
他にも有名な画家は沢山いるけれど、彼は突出している。彼の滅茶苦茶な生き方は兎も角、その画才は天賦の才だと思わずにはいられない何かが宿っている。
ゴッホと同様、これも時代の産物だからこれからはこういう画家は出ないだろうな~。
で、以下は以前したためた駄文。

彼の悲惨な境涯とは裏腹に、彼の絵を見ていて深い感動と共に、前途に希望を予感出来るような、何かそうしたものをとても強く感じる。それは彼の精神の放射であろうし、また彼が生きた時代が、街や人々にもたらした活気とも関係があるだろう。
彼は、自然との長期間に渡る対峙の中でその芸術をゆっくりと熟成させていったセザンヌやボナールと違って、初めから自分の中の詩的な体質で世界と向き合ったように思う。その表現は粗く、早くつかまなければ逃げていく、と言わんばかり、或いは時間をかければ絵画的効果や経験の糧である技術が混入して絵が不純になることを恐れたのか。
― 蓄えられた知識は役に立たない、というのが彼の流儀、その時、その場での対象との交感、それが命だ。絵だけではなく人生においてもまた然り、家も物も家庭も、何も持とうとしなかった彼は、そうする事に対して嘘臭いと思う、一種潔癖さのようなものが彼の中にあったに違いない。

してみれば彼にとって絵を描いていくという事は経験からくる糧が単なる糧とならないような所に常に身を置くことだったに違いない。楽器奏者は、例え演奏の瞬間に霊感豊かでなくとも、それまで培った技術である程度聴衆を魅了できるが、指揮者はその点絶望的だという。絶えずその瞬間その瞬間にインスピレーションを得て指揮しないと、たちまちオーケストラの音は死んでしまうらしい。彼の絵に対する姿勢もこうであったろう。港を持たない船のようだ。
彼の生き方で思い出されるのはゲーテの寓話の中に出てくるある妖精で、それは輝く体をしていて、自分の体を揺さぶると体からバラバラと金貨が落ち、周りの者を喜ばす。一方自分はその度にやせ細っていくのだが、それを気にしている風でもない。どこか彼に似ていると思った。