私の好きな画家たちーその1
以前、好きな画家たちのことを書いた断想をまとめた小冊子を作ったことがある。以下はその時の文章で、いささか硬くて偉そうに聞こえるのが頂けないが、ま、そこの所は大目に見てやって下さい。一番目に持ってきたのは、画家とは言わないが、天性の画家とも言える幼児の描いた絵。
子供の絵を考えるにつけ、時代の変遷( 成熟?)を思わないではいられない。長い歴史の中で、人は平面上にあたかも空間があるように表す術(空間遠近法)を身に付け、その後印象派が色を形から解放し、やっと色から描く自由を得た。平面という素材は空間を手品のように表すためにあるのではなく、平面には平面の課題があることに思いが至るようになった。そうしてようやく子供の絵に巡り合えたわけだ。それこそ、気がつけばこんな身近に巨匠がいたのかという感じだ。自分達が苦労して、なんとか使い古された空間遠近法を脱ぎ捨てて色彩でもって新しい地平を築こうとあくせく働いているのに、子供はいとも簡単に、それもその何倍も見事にやってのける。
実際、物の形が描けるようになる前に、色が使えるというのは、とても示唆に富んだことではないだろうか。子供はデッサンの中にではなく、色の中に生きていて、色と魂の結びつきが大人よりずっと親密に違いない。体はここにあるが魂は未だ地球に同化していなくて別世界を生きているのだろう。そして芸術がその想像力を受け取るのはそういう世界に違いない。誰もが持っているのだが、ある理由で通常の意識には封印された世界。勿論、子供は自分のやっている事に自覚は無いし、時が来ればその楽園から放り出される。大人は今度はそれを意識を持ってやるべく、骨折っていると言えるかもしれない。
この、子供から大人への変化、そして今度は大人の頭をもって子供の世界へ橋を渡そうとする努力は、人間の歴史と呼応する。古代においては人は生まれながらにして目に見えない世界の事象に通じていたが、時代と共にそういう感覚が失われ、現代再びその世界へ志向する気持ちが強まり、その感覚を取り戻そうと努力している。では何が私達をそう駆り立てているのか。ああ、それは分からない、取り合えず神も自分の話し相手が欲しいのだ、とでも思っておこう。